今週のお題は「〇〇の成長」
ということで、今夜はブログを始めて、初のお題に挑戦です!!
成長と聞くと頭に浮かぶものは
「成長」それは、生まれた時の赤ちゃん時代を振り帰り、今目の前に居る大きくなった子どもを見ると、
「あぁ成長したなぁ」と日々実感する。
「成長」とは目に見えて分かるものと、目には分からないものがあると私は思っている。
目で見て分かる成長は、昨日まで歩けなかった子どもが歩けた。とかそういった類を指す。
目には分からなないもの、それは本人が何かと比べないと分からないことが多い。
それは過去の自分だったり。
他人からしたら何も変化がないように見える。
けれど、本人にとっては実は大きな成長をしていることが多い。
主体的成長なのか?客観的成長なのか?
よく一年の終わりが近づく頃に、今年の振り返りをする人も多い。
今年一年自分は成長できただろうか?これは主体的な成長を知るきっかけだ。
そして客観的成長は、周りから見て明らかに分かる成長だ。
例えば、去年まではSNSのフォロワーが1000人だったのに、今年になって1万人を超えたとか。そういったものは目に見えて分かりやすい。
成長を良しとするのかしないのか
成長って聞くと、ちょっと以前までのそれよりも「より良くなった」そんな風に捉えられるので、聞こえがいい。
つまり以前よりも少しでも上に伸びたということ。
後退することはよくないのか?
立ち止まることもよくないのか?
成長だけがいいことなのか?
成長とは何となく、ポジティブなイメージ。だから、私たちは常に成長を求めているような気がする。
けれどそういった風潮は、成長しないのはよくないことということになりかねない。
老いることは成長しないのか?
子どもの健やかな成長は喜ばしい。
それは、あんなに小さかった赤ちゃんが段々と自立に向けて成長する姿を身近に見るからだ。
自立をしたらそれで終わりだろうか?
老いが近づく時、出来ない事、不便なことが増えていく。
これは成長とは逆とも言えるかもしれない。
成長を糧にするのか、生きている。それだけが「成長」か
出来なかったことを一つでも出来るように、努力することが日々の糧になる場合が多い。
一日前の自分、一ヶ月前、一年前、五年前の自分と比べて少しでも一歩でも進みたい。
そういう気持ちは糧になり、生きる喜びに繋がる。
でもそれを糧にしてしまうと、出来なかった時の辛い気持ちへと変換させかねない。
実際人間は目に見えて老いを感じるけれど、
木を見るとどうだろうか。
明らかに、違う点は年輪を重ねて大樹になるのだ。
きっと100歳まで生きた木は大きな大樹となるだろう。
私たちは木と同じ年輪を重ねたという生きてきた証がある。
出来た。出来ない。成長。後退。云々。
生きている。ここまで生きてきた。
それが一番なんじゃないかなと思った。
「成長」という言葉を考えてみた時、真っ先に頭に浮かんだ光景。
それは3本の並んだ木だった。
私の実家の庭に、3本の木が並んでいる。
同じ種類の木が3本だ。
順番に背の順で横に並んでいる。
小学校の入学祝いで貰って植樹した木だ。
あれからもう、32年、29年、28年が経った。
それは、私の兄弟3人が小学校入学からの月日が経ったことを現す木なのだ。
あれから色んなことがあったし、景色も変わった。
ただ、そこに立っている木だけはずっとそこで変わらず居続けている。
一年一年少しずつ大きくなったのだ。
帰省する度に、その木を見て思い出すのだ。
あの頃見た時は小さかったのになぁ。ここまで成長してくれてありがとう。
もう私はそこには住んでいないのだけれど、私の代わりにそこでそっと見守ってくれている。そんな気がするのだ。
人は生きているだけで「成長」していると私は思う。
地球もそう。宇宙もそうだ。
成長とは日々の営みの延長なのかもしれない。
今日も私はまた一日成長した。
それは誰かの成長の先に、私にバトンが渡された命の成長。
いつまでつづくか分からない私からの成長のバトンを子ども達につなげたい。
今週のお題「〇〇の成長」
それは「命のバトンの成長」だと思った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。