おはようございます。
1冊読み終わったので感想を綴りたいと思います。
今日ご紹介する本はこちら。
平野啓一郎さん著書「本心」です!!
平野啓一郎さんの「マチネの終わり」が大好きでして、
そんな平野さんの新刊!!
ということで購入して読みました。
この本の説明
「——母を作ってほしいんです。」
舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。
AI/VRの最新技術を使い、
生前そっくりの母を再生させた息子は、
「自由死」を望んだ母の、<本心>を探ろうとする。
母の友人だった女性、かつて交際関係にあった老作家・・・。
それらの人たちから語られる、
まったく知らなかった母のもう一つの顔。
さらには、母が自分に隠していた衝撃の事実を知る——。
本書より引用
心に残ったこと
P313~
一体、愛する人の記憶は、
何のために、その死後も残り続けるのだろう?
生きている人ならば、覚えていることが、
次に相手に会った時に役立つ。
けれども、もう会えない人の記憶は?
生きている誰かと、その人について語り合うため?
——そんな目的もなく、
ただ、その人がいなくなれば、
自動的に、その記憶も消えてしまうという機能が、
人間には備わっていないということだけなのだろうか。
亡くなった人も、生きている人も、
自分が関わった人の記憶というのは、
人生の物語に登場した人物として、
生きている限り記憶に残り続けるものだと思う。
ふとした瞬間や、何かのきっかけで思い出せる。
記憶の引き出しというか、
思い出のスペースとして、その濃淡をまといながら収納されているのかもしれない。
会えない人の記憶は、
きっと「自分のため」なんだと思う。
その人と過ごした時間がまぎれもなく、
「今の自分」を形成してきたんだと私は思う。
感想
時は2040年。
そう遠くない未来の話で、とても現実的だった。
母をVF(バーチャルフィギア)で再現した主人公朔也。
「自由死」をしたいと望んでいた母は、
事故死をしてしまうのだ。
<もう十分だから>自由死をしたい。
そんな母の<十分>の意味は?
本当に満足での「十分」と、
辛くてもう嫌だの「十分」とでは、
受け取り方が違う。
母が言っていた<もう十分>はどっちの意味に値したのだろうか?
そんな母の<本心>を知りたくて、
朔也は生前、母と交流をしていた人たちに会い、
自分に見せる一面の母とのギャップに戸惑う。
私自身も常日頃思っていたことは、
「本当の自分」って、誰といる時の自分なんだろうって悩んだ時期があった。
なぜなら、
接する相手によって、「自分がコロコロ変わる」からだ。
家族の前の自分、友達の前での自分、
職場での自分。
そして昨今では、自分の家族の前、夫、子ども、
ママ友、などなど更に自分が増える一方なのだ。
自分の立場によって、私は「自分」が変化しているのを、
10代の頃から感じていて、
本当の私はどこにあるんだろうと思っていた。
最近この「文人主義」という言葉を知ってからは腑に落ちた。
どんな相手に接している相手も「自分」という考え方です。
そうか、社会あってこその「自分」なんだと思うと、
気が楽になったのです。
この物語もそんな「文人」が垣間見れるのでした。
自分が思い描く「母の姿」は本当に母なのか?
自分以外の母と接することで見えてきた、自分が知らない母の姿、
そして思い。
私たちはいつだって、相手の<本心>は分からないものだと思いました。
それは、「社会」によって、本心というのは、
変化するものだと感じたのです。
VRやVFは人を癒してくれるのか?
そういった問題も考えさせられるのでした。
そう遠くない未来、そして、現実的な近未来に、
少しの期待と、不安が入り混じるのでした。
平野啓一郎さんの文学のテーマと言えば、「愛」
この本心では、また違う「愛」に触れらた。
そんな読了感でした。
以上、平野啓一郎さん著書「本心」を読んだ感想でした。
★平野啓一郎さん、youtuberベルさんの対談は必見です★
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
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